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ヴィパッサナー瞑想との出会い2

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それはある日唐突に起こりました。 1998年5月12日いつもどおりのジャカルタの熱い日。 秘書たちが部屋で騒いでいるので何かと聞けば ジャカルタの北西部で大規模なデモが発生していると。 中には心配そうな表情の若い女性秘書もおりましたが、 私達日本人駐在員は誰も気にもしておらず、 多少のデモなどここジャカルタでは日常的な風景です。 平然と通常業務をこなしていました。 自体が急変したのよく5月13日だったと記憶してます。 朝起きれば世界は一変してました。 インドネシアの民放は天地をひっくり返した様な大騒ぎ。 なによりも秘書を含む現地スタッフが全員出社拒否。 取引先の日系企業の日本人社長も泡をくったように、 「これからすぐ空港にいって家族と一緒に帰国します」 「プロジェクト?命の方が大切です。  あなたも早く逃げて下さいね!」 当初大規模なデモだと思っていた事態は、 大方の予想に反し、 一般市民によるスーパーやデパートへの大規模な 略奪行為に変化していたのです。 つまりこれは大暴動とゆう事です。 大勢の市民が雪崩をうって様々な商店へ侵入し略奪行為を働く。 その姿は日頃穏便なインドネシア人の姿では全く有りませんでした。 しまいには外国人が運転する車や、 中国系インドネシア人が慎ましやかに経営している 小さな商店までが襲われるようになりました。 この間たったの2日間。 当時日本では大規模な暴動と表現されていたと思いますが、 私達日本人駐在員が目にした風景は間違いなく内乱であったと思います。 日本の報道では被害は多くありませんでしたが、 実際は多くの中国系インドネシア人が亡くなった事は間違いありません。 つい昨日まで我が世の春を謳歌していたインドネシア・スハルト政権と それに付き従い、暴利を貪っていた中国系インドネシア人社会をはじめ 日系企業にとって積み重ねてきた時はたった2日程度で崩れ落ちて行く。 終末は何気ない普通の顔で唐突に現れたのでした。 ある日、平然な表情で。 まるでそれが計画されていた事の様に、 なんの遠慮も無く 人々の生活を完膚なきまでに叩き潰して行く。 この瞬間に今までの大きな苦労や努力が、 描いていた夢や展望が一瞬で崩れ落ちていった そんな多くの日系駐在員の一人となりました。 またインドネシア脱出も困難を極めました。 結果的に約4000人ほどの法人が逃げ遅れた...

ヴィパッサナー瞑想との出会い1

 元々私は日系大手企業の駐在員として、 東南アジアを中心に約15年程海外駐在しておりました。 最初の赴任地はインドネシア・ジャカルタで、 1996年頃にはジャカルタ入りしてました。 当時ジャカルタはまだまだ東南アジアの田舎町といった風情で、 盤石のスハルトの超長期政権はこの世の春を謳歌しており、 インドネシアに進出している日系企業は建設や自動車を中心に 今とは比べ物にならないほど豪華で元気でした。 まだ1ドル未満で生活している貧困層が多い中で 私達駐在員の生活は軒並み贅沢だったと思います。 なに不自由ない大きな家に住み お手伝いさんや運転手さんもいる。 なかにはコックさんを別途やとっている方もいました。 オシャレなところでは プール付きの家に住んでらっしゃる 大手企業の社長さんやそのご家族では、 奥様などが インドネシア人の運転手兼ボディーガードに付き添われ ジャカルタの高級デパートで 持ちきれないほどの買い物袋を抱え 優雅にクーラーのきいた快適な空間を闊歩する。 そんな90年代後半のジャカルタの日常的な風景を思い出します。 貧しい現地の方はといえば、 高級デパートのすぐ裏にはスラムの様な掘っ立て小屋があり、 熱くて不衛生な中で小さなお子さんを懸命に育てたりしていました。 お給料はおよそ日本円にして¥3万円以下の方が多かったと記憶してます。 現地の貧しい方々をよそ眼に、 なんの実績もない、 なんの人としての徳も無い、 単に日本にうまれただけの若造である私が、 自分を特別な存在だと勘違いする多くの日本人達の一人になるには、 当時のジャカルタではさほど時間はかかりませんでした。 これからもこの最高の日々である 我が世の春は続いて行く! 未来永劫に! と そんなふうに東南アジアの島国の隅っこで無邪気に考えていた90年代後半。 そして人生がそれを許すわけが無い事を痛感する日々がほどなく訪れるのです(続く)